お話の、再開 (その1)

〔2012年7月1日〕

わ、お母さん。何これ?わたしがまだ小学生じゃん…。

またぁ〜、ムダに長いお話にして〜。駄目だってば、みんなね、忙しいの。

パパッと読んで、『あ〜っ、そうなの?それで?それで?』って思ってもらわないとさ。

あの〜、皆さん。わたし、先ほどの案内係りのカノンです。

で、じつはいま17歳なんです。とりあえず単位制の静岡の高校に行ってます…っていうか、行ってみようとしてるっていうか。あ、そんな事より

うちの家、この6年間ですけど、いつもにも増して『てんやわんや』の?嵐でした…。

父も母もそれぞれに持病を悪化させてしまって体調を大きく崩し、専門のお医者さんにかかりましたし、

そんな中で、姉は受験と『比較的自由度の高い』高校の工芸デザイン科生活を、わたしは不登校と支援教室通いを経験し、無事(?)日本の公立の義務教育現場を卒業しました。

でも日本の中学校って…、子どもが少し普通をはずれると、ちょっと対応がヘンですよね。大変でした。

さて、『お母さんのはなし』長すぎますし、なんと6年ぶりのお話の再開ですから、
あらすじだけ、さきにお伝えしますね。

母の話の場合、
『童話風』がいいと思います。

〜むかし、むかし、四国の香川県の高松というところに、日常的に なにかというと、

『また、お前かっ!』
『どうして、かっちゃん、もう、あなたという子は信じられない… 』

といわれながらも、

計算ドリルに漢字の書き取りに汗かいていそしみ、
お習字とかピアノのおけいこに通いつつ、
なぜか道行く野良犬やら野良ネコにモテモテの、

さし絵のある本を読むのと草っぱらでおそらを見ながら歌うのが
だ〜い好きな、女の子がおりました。

その子の家のお父さんとお母さんは、その頃四国では始まったばかりの
『買い物カゴをお客さんが持って自由に品物を選び入れ、レジに並んで支払いをする』という、昭和30年代後半の当時、高松市では実はまだまだ珍しかった
『スーパーマーケット』形式の八百屋 をしていた伯父さんを手伝って
毎日汗水たらして、立派に働いていたのですが、

そのじつ、内心

『いまでこそ、こんな家業をして、人に頭もさげているけれど 、わしらはなあ。
もとを帰せば…南北朝の、時ははるか1330年、のちの『後村上天皇』になる方の 恐れ多くも云々かんぬん、

かの戦さでは『楠木正成』の馬身の隣を云々かんぬん、

…ああ、憎き憎きあの『織田信長』さえなかりせば、伊勢のその地を離れぬものを、

信長が息子の・信雄(のぶかつ)を婿に迎えたばっかりに! ああ、口惜しや。口惜しや!うんぬんかんぬん、etc.』

…なんてことを日常的に思って生きているという、
実にへんてこな時代錯誤な一族の出身だったのでした!。

そうして、女の子のお母さんのほうも

『わたしかて、いまは近所の奥さん達に「八百屋のおばちゃん風情が」扱いされよるけど、

実家の村に帰ったら、「これは村長さんとこの末の孫嬢ちゃんやないですか〜?まあ、お久しゅうございますなぁ!」ていわれる身分なんやからね!

この栗林町にに来る前は、名古屋で「文化住宅」に住んどったんやけんね。…そう小馬鹿にせんで欲しいわ。ほんまに!』

とか思って一生懸命昭和の高度成長期の波の中を生活していました。

それとかっちゃんにはムチャクチャ出来の良い4歳上の、名古屋でお父さんがとある企業の「なかなか感じの良いサラリーマン」をしていた時に生まれた

『すてきに賢くて二重まぶたの、容姿も凛々しい』、

『万事において、御手本の、あこがれの大好きなお姉ちゃん!』が居たのでした…。