さあ、赤信号を渡ろう!
さあ、とんちゃんの先生の言葉を胸に、わたしの赤信号を渡ろう。
赤信号だろうけれども、渡るんだ。自分で決めて渡るんだ。
生徒会室に、さあ、行くぞ!
…いや、ほんと。生徒会室になじむまで実のところわたしは、かなり努力をしようとしていた。
本当は行きたくなかった文系クラスだったから、クラスではブーたれた顔をしていたらしく、
『すっごくとっつきにくいひとだと思ってた』と
当時のクラスメートにも後でいわれたし、
自分にとってはわけのわからないものになりつつある教科書やら参考書やらを普通に読みこなしてゆく人々を隣りで見ているのは、やっぱりちょっと胸のあたりが痛かった。
『家にいるときより学校にいるときのほうがほっとする』わたしだのに、
クラスにいるのはつらくなり、部活動も禁止では、廊下をうろうろ、中庭の風景でもながめているしか立つ瀬がない。
これで生徒会室でも浮いちゃったらと思うと、ちょっと怖かった。
だから、どこまで 自分を出していいやら、どんなところに 立てばいいやら、
どんなタイプのおんなのこのふりをすれば すんなり この部屋になじめるかなあ?
なんて、生徒会室のとびらの前で考えていると、なぜだかK宗くんか I石くんかのどちらかが毎回 ひょいと顔を出して、手招きをする。
『あれ、またこんなとこで、なんしょんなー。はいはい、はよ、入ってきーまい。きょうの仕事が待ってるでー。』
『う、うん!』
そうやってなんとなく考えたり、構えたり、仮面をかむってるひまなしに、あれあれあれ? という具合に、
生徒会室は『素に近いわたし』をそのまんま吸収したのだ。
これは、ある意味すごいことだった。
ちいさい時分に預けられた田舎から実家に帰ってきて以来、わたしはわたしなりに考えて、一生懸命、お母さんやお父さんに良い子だと思ってもらえるよう努力してかわいこぶりっこをやっていた。
それでいて鋭い姉に『かっちゃん、ずるい!』なんていわれない程度におさめていなくてはならなかった。
演技過剰はすぐにバレたし、ボロがでる。手先の器用さとまじめさ几帳面さでは姉のまねをしても無駄だった。いつもはるかに、姉はうえ。
ドジとだささをカバーして、おしっこ失敗しちゃっても
『あーあ、あんな田舎に預けるんじゃなかったっ。失敗したわ!』
なんて恐ろしい言葉を2度と母から引き出さないように、ドジだけど可愛いわあって思ってもらえるように、わたしがなんとかしなくっちゃ。
大好きだったあのお家、大好きなじいやんとばぁやんの悪口なんていわせない。鶏小屋にすみれにレンゲ、菜の花咲いてる畑を抜けて、牛が啼いてる、聞こえてる。思い出したら涙がでるけど、生まれたお家はここだもの…。
かっちゃん、返事は にっこり『はい』 ですよ。寄り道してはいけません。駄菓子屋になんか行っちゃダメ。
かっちゃん、ちゃんと髪といて。くつ下ちゃんと あげなさい。先生のお話、ちゃんと聞いてね、よそ見してたらだめですよ。
おねぇちゃんは、コンナこと、一度いったらもうそれでちゃあんと毎日出来てたんだのに、どうしてあなたはすぐ忘れるのかしらねぇー。
お姉ちゃんのように。
なりさえすれば、叱られない、嘆かれない、お父さんにも怒鳴られない。
よく見ていよう、ああなろう。100点とろう、委員長にもなろう。
そんなことしてるうち、わたしは自分の気持ちより、
その場やすぐ近くにいるひとが何をわたしに望んでいるかに合わせて、かなり自分を変化させることの出来る『どこか演技派な子供』になっていた。
ただし、長期間は無理である。すぐ疲れてボロを出す、短期集中型の大根役者で。
厄介なことには自分でも、どれが本来の自分だかわからなくなりはじめていた…。
だってね、実家に帰ってからは、誰れも わたしにこう聞いてくれるひとがいなかったのだもの。
『可愛いイトさん、
(解説:関西における「お嬢さん」に呼びかける際のいわゆる愛称方言である。上の娘はコイさん。恋しいひとの略とも聞く。下の娘のイトさんはいとしいひとの略か?)
さてさて、今日のご機嫌は いかがですかな?
やれ、そんな顔をなさって。なあにを 思うておられるですか?』
やあ、ゆうべはよく眠れたかい?、今日も元気かい?今日はなにをして遊ぼうか?
Hey!dear,Are you ok?
Are you happy today?
Oh、dear。 my dear!!
お母さんは あんな田舎と言ったけど。
そりゃあ、すぐ近くに栗林公園のある栗林町は、本屋も肉屋も電気屋さんも大きな通りもあるけれど。
あっちのお家には、いつだってわたしがわたしでいられるように、わたしをみている 空気があった。
いっぱいいっぱい満ちていたのに…。
そして、あれは高校受験の面接のことを意識してだったのだろうか、かなり強制的な感じで姉に
『あー、かつこ、自分のことをね「うちなぁ、あんなぁ(=わたしねー、あのね―)って言うのはね、
もう止めなさい。
今日から止めるの。たぶんね、それで全部がかなり変わってくるはずだから!」と直されたのだ。
この時点で、たとえ、先祖は楠木正成とムチャクチャ親しかったか知れないし、戦前までは、子ども達それぞれに乳母さんがついた大きなお家だったのか知れないが、今はもう、しがない、『片田舎の八百屋の娘』でしかないにもかかわらず
『え。ずーっとあなたってば、ご両親が教師のお家のひとだとばっかり思ってたわ〜、だって、うちの高校そういうの結構多かったじゃない?カターイお家のひとって感じだったわよ!』
といわれる、『風変わりだけど、かなりまじめなカツコさん』の素地は出来上がり、
みんなの前に、とりあえず『うちの子は、そうでなくてはなりません』と教え込まれた通りに優等生みたいな顔をして、すまして立っていたのであった。
そして、ここまで書いてきて、わたしは改めて気付く。
あの時、生徒会室のとびらを開けてくれた、K宗くんやI石くんが、あんな風に気取らない讃岐弁まじりの言葉で話しかけてくれていなかったら。
あんなにも素直な気持ちであの部屋には入れなかったんじゃないだろうかって。
それに、あのあまりにも遠慮のない傍若無人なM脇くんの…
『こんにちは、はじめまして、僕はM脇。きみは誰れ?何年何組?』
ではなく、
『わあ、君。君だよ、君!
あれぇー?君は僕のお嫁さんになるひとのはずなんだがなぁー、なんで?
なんで気が付かないのかなぁー?』
…ってな具合の視線や言動にホトホト面食らって頭から噴火してたりしなかったら…。
そして『うわべだけすましこんどるような人間は、すぐわかる。お笑いぐさだぜ!』な目付きと物腰の、
こわーいM下先輩やら鋭い観察力のM本くんやらがすぐ後ろに控えていたりしなかったならば…自分が大嫌いになりかけていた、わたしのことだもの、
またどこか『ウマくやらなくっちゃ!』なんて一般受けをねらったへたな演技をしでかしていただろう。
そしてそのうち自分でも嘘くさくなって自己嫌悪して。いつの間にかまた生徒会室からも遠ざかっていっただろう。
そうやって自分のほんとに息のできる場所をどんどんなくしていったかもしれない。
思えばあぶない境目をわたしは歩いていた。それをみんなのおかげでん生徒会室に紛れ込ませてもらったのだ。
そしてそれは、やわらかな讃岐弁で包まれていた、ちいさい時分の安心で幸せな記憶が成してくれた、
なにか『かっちゃん、ここはokだよ!』の合図だったのかもしれないと思う…。
まあ、けれどそれは30年後の今になって考えてみると…のお話。
M脇くんの受難はこうして始まってしまったのである!