M本くんは、あの時叱ってくれたっけ。

cat-work2302016-08-25


父の崩れ落ちていった晩年のことを思うと。
今でもちょっとだけ考えてしまう。

もしもわたしが、男に生まれていさえしたら…。もっと結末は、違っていたんじゃないだろうかって。

まだ高校生だったころ。

M本くんにわたしの持ってた『数学者のエッセイ本』を貸すことになって…で、うちの一宮の壊れかけたような店の前をこっそり通りすぎて自宅まで行かねばならなかったとき。

わたしは、
とにかくうちの誰かに私達の姿を見られないように、
そこをとにかくそ〜っとうまく通り過ぎてやり過ごそうとした。
うちの近所を制服姿で男の子連れで歩いてるなんて…

誰に見つかったら、なんていわれるかわかったものじゃない。

もってのほかだ。阿鼻叫喚だ。
見つかれば絶対騒動になる。いい結果にはぜ〜ったいに、ならない。

M本くんの頭を抑えて低くして、いちにの、さんっで息止めて店の前を走って渡る。行き過ぎる。

…ああ、この辺まで来たら。もう、もうだいたいは大丈夫。
フゥゥ〜ッ。

『…お前な。
いまの、なんなんだよ。

なんだよ、あれは?』

『……え?』

『なんでオレ、お前に隠されなきゃなんないんだよ。

あれはないだろう?。
親に挨拶のひとつもさせないなんて、

どういうこったよ?』

『……だってさ〜。』

『あのさ。お前…さ。

なんかオレのこととかさ、お前のうちのこととかさぁ。

両方とも
なんか…どっか見くびってやしないかぁ〜?

あのなぁ。
そりゃあ
あのお前んちの店先の。あの様子じゃぁな、

無理はないかもしれんけどな。
自営業ってのはなぁ。商売ってやつはなぁ、

お前、
どうしたって波が。浮き沈みってもんがあるもんなんだよ。

お前んちがさ、確かにいま現在、あ〜んまりうまくいってなさそうなのは、わかるさ。
ひと目みりゃお前んちの親がいま苦労してんのは、すっごくわかる。

でも、そんなことはな、商売してりゃな誰にでもなんかかんかで。起きちゃう時には起きちゃうもんなんだよ。
ちっとも
恥ずかしくなんかない事なんだぜ。

堂々としてろよ?いいか?わかったか?

ホントに。
オレは、そんなんもんな。な〜んとも思っとらんのやからな?。
な、な。
お前は、お前んちの娘だろ〜がよ?

娘の
お前が自分ち恥ずかしがって、どうすんだよ!
…なぁ。

いまに、また違うほうから風が吹いて…なんかうま〜く行き始める、そんなことも、あるよ。
商売なんてな、そんなもんらしいぜ?。

な。しっかりしてろよ?』

……。

あの時の
口をとんがらかしながらの、M本くんの。

けれどまっすぐな顔つき。

M本くん。
ありがとうね。あの時の
あなた、本当にありがたかった。

ずっと後になっての求職中に。
わたしは、ある時本気で八百長さんになろうとしてみたのよ。

東京の…料理本を書いて出してた八百長さんに、お願いして…。住み込みで修行にいくつもりだった。

でも父は『止めてくれ、何をいいよるんじゃ、オンナ風情が!』と叫んだわ。
父はね、八百屋なんか、やりたくなかった、なりたくなかった人だったのよ。
八百屋が嫌で嫌でならなかったの。
自分の大嫌いな家業をやってる娘なんか、見たくなかったの。
父はね、
大学で経済学を学んで、名古屋の大きな塗料会社の経理部に勤めていたの。

新人研修はあこがれの『湘南』。いかした会社のデスク風景の白黒写真が、残ってる。

でも私が生まれる一年くらい前に、なにかしつこい眼病にかかってしまって、
なかなか治らなかったの。
ずっと会社を休まなくてはならなかった。

会社の方々はひきとめてくれたそうなのだけど、
ひとの好意だからって甘ったれるわけにはいかないといって…
母の言い方によれば、『いらない意地と格好つけをして』、退社をしたの…。
そして高松で。次の就職までの、ほんの一時のことのつもりで…長兄の商売を手伝ってたのだけど…。

長兄の伯父がもうひとつのお商売で負債を背負って。
アレもコレも
駄目になって。そのうち、伯父が脳溢血で、半身不随の子どもみたいになって長期の入院。

へどがでるほどイヤだと言ってた八百屋を
死ぬまで続けなくてはならなかった…の。

どうしても
どうしても
好きになれない
向いてもいない仕事で働いて食べていかなくてはならないのは、
つらい事だわ。
仕事でもなんでも、そうだわね。好きで、楽しくなくっちゃね。
つまらないわ。創意工夫も浮かばない、

続けてはいかれない。

自分の中にあるもので
仕事をまわりの人達を好きになって 生きていなくちゃ。

ひとは
なんとか息をしてるだけになってしまうもの。
イキイキと
生きているとは言えなくなっちゃう生き物なのね。

父は ヤッパリちょっと可哀想な…プライドばっかり高くって、口先ばかり威勢のいい、生活力のまるでない。弱いところのある男のひとだった…。

そんな自分のワガママ、欠点を
年をとってからまざまざと思い知らされ、

はたと気付いたときには…、もう、引き返せなかったの…。