つけたして解説しておくと、
お前が悪い、お前が悪いって
しょっちゅう家族など身近なひとに言われ続けてると。
子どもの気持ちはドクレます。
大人だって同じじゃないかな。
そしてこのドクレるって言葉。
これってもしかして「毒れる」って書くのじゃない?
ドクレると、そのひとはもう自分が悪いって思うのにうんざりしてしまって。自分が悪いってわかってることでも、悪いとは素直に思えなくなってきてしまう。
少なくとも
わたしは、だんだんそうなって来ていました。
そんなときにさ、先輩から「しまった、〜〜でも、しといてやるんだった!」
なんて言葉を聞いた、わたしは。
もう、ホントにびっくりしたのだ。
なにがって、
まわりのうちの大人たちは、なにか失敗した不様なやつにそんな言葉をぜ〜ったい、かけたりなんかしなかったから。
ひとの失敗に自分が関係しているかもなんて、
たとえ裏で糸ひいてそのひとをひっくり返した 張本人だったとしても、口にはしない。うちの大人たちは、いわないようなことだった……←←←って、いやまあ、これは当然かもしれないな。張本人だものな。
とにかく、
悪くもないひとから、
悪かったなぁって言われて。
わたしには不思議なことが起きたの。
ううん、M下さん違うんです。
これはわたし自身のせい、わたしの責任なんです。悪いとはまだ思えないけど。悪いとしても、それはわたしのやったこと。
でも、いきさつ経緯は
いまの、ままでは子どものけんか。ただのふてくされの
甘ったれ。
こんなの とても話せない。
恥ずかしいなぁ、どうしよう?
って。どうして なんだかわからないけど、
一瞬の間に、わたしはそんなふうに
ジャンプして素直な気持ちと
しっかりした気持ちをとりもどしていました。
のちにカックス先生御夫妻に、めぐり合い。エ〜イ、この際だって決めてクリスチャンになった時にも
これとよく似た経験をしたのを覚えてる。
会ったこともない、顔も知らないひとなのに。2000年以上も前の、外国のひとなのに。
わたしとはなんの関係もなさそうな、ジーサスクライストに。わたしのいままでやった良くないことも悪い考え、恨みやののしり。いまも、これから死ぬまでも、やらかしてしまうだろう、うっかりやら故意なあれこれ。全部まかせて押しつけて、
自分の代わりに十字架に
ふっとい釘で 手足を打ち抜いて
ハリツケにしちゃったらしいって
なんか、悪いな、ごめんなさいって、思ったら。
一番気持ちのいい自分。
山本のじぃやんの背中のうえに居たときのような。
ばぁやんに背中をなでてもらってた時みたいな。
そんな自分にもどれたの。
大事な不思議な感覚だったと
思うのです、
今度は、だれかにそうしてあげたい。だからわたしは、忘れない。
忘れちゃだめだと思っています。